第28回横浜開港祭 〜開港150周年!横浜市民で創る最大の祭典!!〜

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横浜コラム
横浜のこと・ものはじめて巡り
  初めに……文献や研究により、考え方が異なる場合もあります。
※横浜・ハマことば辞典や横浜開港資料館資料(各書籍)、ホームページを元に作成されています
  * 関内・馬車道・日本大通りエリア*
* 桜木町・野毛エリア*
* 元町・山手・本牧エリア*
* その他の横浜市内*

外国郵便  
『外国郵便創業の局』記念プレート
場所:横浜港郵便局 入口正面
開国当初は、それぞれの国が在日外国郵便局を持ち、外国郵便を扱っていましたが、明治8年(1875年)1月5日、横浜郵便局(現在の横浜港郵便局)が全ての外国郵便も扱うことになりました。
電報  
『電信創業の地』碑
場所:横浜地方検察庁 玄関脇(みなとみらい大通り)
明治2年(1869年)12月25日、横浜電信局と東京電信局との間で、日本最初の電報の取り扱いを開始しました。
横浜のこの碑と同様の物が東京の築地にあるのは、これを表しています。
日本での電信機の初めは、アメリカ使節ペリーから将軍に贈られたモールス電信機で、実際の送信は、安政元年(1854年)に横浜応接所から送信され、記録によると「YOKOHAMA」等の文字を送信したそうです。
電話  
明治10年(1877年)、電信線を利用しての通話実験が成功しました。
電話交換  
『電話交換創始の地』碑
場所:ホテルコンチネンタル横浜 向かい(本町通り)
明治23年(1890年)、“ハマ”の電話交換所で日本初の交換業務が、交換手4人により開始されました。
当時は、まず相手の電話番号を告げてつないでもらったそうです。横浜のこの碑と同様の形式の物が東京の丸の内にもあります。
銀行(海外資本による銀行)業務  
『銀行業務発祥の地』碑
場所:産業貿易センタービル前広場 東より隅
慶応2年(1866年)、英国系金融機関HSBCグループの香港上海銀行は、創業2年目になるこの年に居留地62番地に日本で初の支店となる横浜支店を開設しました。このことは、「海外資本による銀行」業務が初めて行なわれたことを意味しています。
日本で最初の銀行は、明治6年(1873年)創立の「第一国立銀行」とされ、日本橋に発祥の地のプレートが飾られていますが、これは「日本の資金による銀行」業務を意味していました。
また、香港上海銀行は、現在日本で営業を行なっている最も古い銀行です。
アイスクリーム(アイスクリン)  
アイスクリーム発祥の地碑『太陽の母子』像
場所:馬車道(常盤町5丁目)
明治2年(1869年)6月、町田房造が開業した馬車道の氷水店が、「アイスクリン(アイスクリーム)」と氷水を発売したということです。当時のお店の向かい側にこの像が建てられています。当時は、スプーン3〜4杯というわずかな量で、値段が今の8000円にも相当するといいます…。アイスクリームは、大変な高級品だったのです!
馬車道商店街では、毎年5月9日を<アイスクリームの日>と決めて、この日を中止に「馬車道アイス」の特売等を含むイベントを開催しています。「馬車道あいす」は、横浜グッズ001にも認定され、お土産としても人気の1つになっています。
機械による製氷  
『機械製氷の発祥の地』碑
場所:山手迎賓館(みなとみらい線 元町・中華街駅元町側出口すぐ東隣)
明治12年(1879年)、オランダ人のストルネブリンクらにより日本初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」が設立され、エーテル式製氷機により日本で初めて機械による製氷が行われました。
この製氷所は、平成11年(1999年)12月31日まで、Mニチレイの子会社である神奈川日冷M山手工場として操業していました。
天然氷を販売する事業は、19世紀始め、アメリカのニューイングランドから始まり、ボストンから各地へ輸出されていました。横浜にも開港後「ボストン氷」が輸入され、ホテルのレストラン等でお客様に出されていたそうです。外国人医師が滞在するようになると、治療用にも氷が求められるようになりました。この頃の「ボストン氷」は、アメリカ南端の喜望峰まわりで6ヶ月もかかって輸入されていたこともあり、氷は大変高価な物でした。それにより、各地で国産化の動きが見られ、函館・五稜郭の外堀で作られた「函館氷」は有名です。
また、馬車道でアイスクリンと売り出された“氷水”は、「カンナで削ったアメリカ氷」と言われています。今で言う、かき氷に近い物だったようです。
ホテル  
『ホテル発祥の地』碑
場所:レストラン「かをり」前(横浜情報文化センター向かい側:山下町70番地)
横浜で外国人居留地70番(現在の山下町70番地)に、日本で最初に建てられた西洋式ホテル「横浜ホテル」が万延元年(1860年)にオランダ人のC.J.フフナゲールにより開業しました。
このフフナゲールは、船長でしたが、自分の船を売却し、船の乗組員と共にこの「横浜ホテル」を創設したそうです。船にはコックは勿論、床屋や大工、洋服の仕立屋、ミュージシャンまでいたので、ホテルの従業員としてやっていくことは難しいものではなかったようです♪
建物は決して立派な物だったとは、いえなかったようですが、半ば日本風、天井からはシャンデリアが吊り下げてあるような半ばヨーロッパ風だったそうです。幕末の時代にフォークとナイフでのディナーに、優雅な音楽とは少し意表をついたものだったと思います。
このホテルには、シーボルト等の著名人も滞在したといいますから、すごいですね!
慶応2年(1866年)の大火で消失しましたが、その後この周辺に立ち並んだホテルの経営者は、この「横浜ホテル」のボーイ等をしていた者が独立したものだったとも言われています。
ビール  
『麒麟麦酒開源記念碑』
『日本最初の麦酒工場跡』碑
場所:キリン園公園(中区千代崎町1丁目)
『ビール井戸』
場所:山手北方小学校 敷地内
明治5年(1872年)、横浜で初めてビールの醸造所を興した、アメリカ人醸造技師ウィリアム・コープランドがここに日本で最初のビール工場を作りました。
これが、日本における麦酒醸造の開源となっており、現在のキリンビール株式会社の前身となりました。しかし、その工場は関東大震災で全壊した為、鶴見区生麦に移転し、その後昭和12年(1937年)にキリン園公園となりました。
コープランドは、現在の山手北方小学校付近の天沼に、ビールの醸造に適した清水が湧くことを見つけ、ここに醸造所を設けました。製品は「天沼ビアザケ」の名で売り出して、親しまれたそうです。この通りは「ビアザケ通り」と呼ばれ、今もその名が残っています。
また、ビールの醸造を日本に伝えたコープランドは、外人墓地に眠っています。
慶応元年(1865年)には、横浜で最初のビア・ホールがパトウによって開かれました。当時飲まれていたビールは、イギリス産で入荷が不確かで、高価な物だったと言われています。
BAR バー  
万延元年(1860年)2月24日、現在のレストラン「かをり」(山下町70番地)に、「横浜ホテル」が竣工して、このホテルの中に“プールバー”が出来たのが日本でのバーの発祥といわれています。
第2次世界大戦後、多数のアメリカ兵の駐留や、1950年に勃発した朝鮮戦争に伴い、横浜中華街にはアメリカ兵や外国人船員を主たる対象にしたバーが増えたといわれています。最盛期には、中華街付近だけでも100軒位のバーがあったそうで、今でもその名残が見られる程、個性のある素敵なバーがたくさんあります♪
お気に入りのバーが見つかるかもしれません…。
また、チェリーブロッサム・ミリオンダラー・バンブー等は、横浜から世界的に発信されたスタンダード・カクテルです。

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  主催:横浜開港祭協議会
(横浜市/横浜商工会議所/(財)横浜観光コンベンション・ビューロー/
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