第28回横浜開港祭 〜開港150周年!横浜市民で創る最大の祭典!!〜
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> 横浜コラム 横浜のこと・ものはじめて巡り
初めに……文献や研究により、考え方が異なる場合もあります。
※横浜・ハマことば辞典や横浜開港資料館資料(各書籍)、ホームページを元に作成されています
* 関内・馬車道・日本大通りエリア*
* 桜木町・野毛エリア*
* 元町・山手・本牧エリア*
* その他の横浜市内*
トラス鉄橋
『鉄(かね)の橋』パネル
場所:吉田橋(馬車道側のJR根岸線高架下)
明治2年(1869年)、吉田橋は、イギリス人土木技師リチャード・H・プラントンによって‘鉄の橋’に架け替えられました。長さ:24m、幅:6.5mの無橋脚鉄橋で、「かねの橋」として、市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして、多くの錦絵に描かれるほど、連日橋見物の人でにぎわいました。
また、かねの橋と言ったのは、通行料を取られて‘橋を渡るにも「かね」がいる’という風刺とも言われています。馬車が1銭、人力車が5厘だったそうです。(当時、お米1升が5銭でした。)
横浜自慢の1つであった鉄の橋は、老朽化により、明治44年(1911年)11月1日に鉄筋コンクリート製に架け替えられました。現在の橋は、5代目で橋の下は高速道路で、欄干のデザインは、明治の‘かねの橋’を取り入れたものだそうです。
「かねの橋」である吉田橋が完全撤去されたのは、高速道路工事の行われた昭和48年(1973年)8月のことでした。
近代街路樹
『近代街路樹発祥の地』碑
場所:馬車道入口 吉田橋側(尾上町5−71)
慶応3年(1867年)、開港後の横浜馬車道では、各々の商店が競って柳に松を連植しました。このことが日本での近代的な街路樹の先駆けとなりました。
街路樹は、近代に入ってから、人口過密な都市の景観的な魅力を向上させる為に発達した物でした。日本における街路樹は、明治以降、欧米都市の影響を受け、樹種の選択、植栽の手入れの改良等によって、著しく進歩、普及しました。
民間新聞(邦字新聞)
『日本国新聞の発祥之地』碑
場所:中華街関帝廟すぐ近くの歩道上
元治元年(1864年)6月28日、ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco:浜田彦蔵)が外国新聞を翻訳・編集し、我が国初の新聞となる「海外新聞」を発行しました。
この「海外新聞」は月刊で、半紙4〜5枚を仮綴りしたもので、最初は手書き、後に活版印刷を用いており、2年間で24冊出版されました。この新聞は、海外事情を明らかにすることが目的だったと言われています。
ジョセフ彦は1837年兵庫県に生まれたが、1850年江戸から船で故郷に帰る途中暴風雨に遭い、50日余り太平洋を漂流した後、アメリカの商船によって救われアメリカに渡りました。税関長サンダースに可愛がられたヒコは、アメリカで教育を受けました。また、カトリックの洗礼を受け「Joseph:ジョセフ」という、クリスチャンネームを受け、ジョセフ・ヒコと名乗るようになり、アメリカ国籍を得ました。
安政6年(1859年)、アメリカ領事館の通訳として、ハリスと共に開国直後の日本に着任しました。一旦アメリカに帰国後、元治元年(1864年)に再来日し、この「海外新聞」は誕生しました。
日刊新聞
『日刊新聞発祥の地』記念碑
場所:横浜第二合同庁舎内(中区北仲通5−57)に保管され、現在非公開ですが、受付カウンターにて資料を受け取ることが出来ます。
明治3年(1870年)12月8日、我が国日刊新聞の鼻祖「横浜毎日新聞」が誕生しました。この新聞は、冊子型木版刷りの旧型から、活字一枚刷りの現代型へと踏み切った我が国初めての新聞でもありました。
碑面には、明治4年に発行された「横浜毎日新聞」のレリーフがはめこまれています。「横浜毎日新聞」は、明治12年に東京に編集局を移し、「東京横浜毎日新聞」に、さらに「毎日新聞」、「東京毎日新聞」と紙名を改めて発行されたが、昭和16年の太平洋戦争勃発の年に廃刊になりました。
また、この「横浜毎日新聞」の創刊日は、12月12日が有力とされていましたが、昭和39年(1964年)、群馬県高山村にて創刊号が発見されたことにより、記念碑の日付も修正されたそうです。
日本ポンチ絵
『チャールズ・ワーグマンの墓地』
場所:山手外人墓地 16区
文久元年(1861年)、イギリス発行のイラスト入り新聞:ロンドンニュースの画家兼通信特派員チャールズ・ワーグマンは、長崎を経て横浜に着任しました。ワーグマンは本来、洋画家でしたが、本国にニュースを送るかたわら1862年に「ジャパン・パンチ」を発行し、新聞風刺マンガの発祥となりました。
ポンチ(パンチ)は、1841年にイギリスで創刊された高級マンガ週刊誌名が源流とされていて、ポンチ絵と言ったのは、日本風の呼び名だと言われています。
世界情勢を織り込んだ外交問題をはじめ、居留地内の出来事等を、面白おかしく、また皮肉たっぷりに描いていました。
ジャパン・パンチの創刊号の表紙には、チョンマゲ、かみしも紋付き袴、2本刺しの日本人が外国人と握手をする姿を描き、「握手礼」と書いています。当時の日本人の風俗は、外国人の目には風刺の材料になったのかもしれませんが、ワーグマンの風刺マンガは、文明開化、開港初期の風俗・世相を知る為にも現在、貴重な資料の1つになっています。
また、洋画家として、日本人に洋画の画法を教えて、多くの日本人洋画家を世に出しています。
写真(館)
『日本写真の開祖・写真師下岡蓮杖 顕彰碑』
場所:馬車道スクエアビル前(弁天通4丁目)
アメリカ人写真師に写真技術を学んだ下岡蓮杖は、独立し、最初は野毛に、後に弁天通4丁目に文久2年(1862年)、日本初の写真館を開きました。
伊豆下田の生まれだった下岡蓮杖は、開港後に横浜に出て来て、アメリカ人の下で働いていました。そこに寄留していたアメリカ人写真師と知り合いになり、写真技術を学んだそうです。
また、横浜開港後、初めて写真館を開いたのは、アメリカ人だったと言われています。
このカメラを型どった記念碑は、数ある記念碑の中でも珍しいと思います。
時計
文久元年(1861年)、スイス時計を広めるために、入国した初めてのスイス人フランソワ・ペルゴ(ジラール・ペルゴ創設一族)は、現在、外国人墓地に眠っています。
彼の功績に敬意を表したモデルの時計が、現在でも販売されています。
下水道
『近代下水道発祥の地』説明パネル
場所:みなとみらい線 日本大通り駅構内
『卵形下水管』と「横浜の下水道の始まり」の石碑
場所:横浜市中土木事務所前(横浜中華街 地久門そば)
『明治時代のマンホール』
場所:開港の広場(大桟橋入口前)
明治3年(1870年)、関内居留地内全域に陶管を埋設しました。これが、我が国最初の近代的下水道でした。その後、明治14年からこれをレンガ製の下水管に造り変えました。
当時は、このレンガ製の下水管「大下水(おおげすい)」等で、居留地の下水を集めて海に放流していました。その断面が卵形をしているので卵形管とも呼ばれますが、下水の流量が少量でも、流速を確保して、汚泥物が管底に蓄積しないように流れていく工夫がなされていました。
この時の卵形管の一部は、中華街南門通りにて現在も使われています。横浜中土木事務所に展示されている構造物は、昭和56年2月に中区山下町37番地先から発掘されたものです。また、みなとみらい線日本大通り駅の建設現場から掘り出された「大下水」の実物は、中部下水処理場(中区本牧十二天)に保存されています。
近代水道
『近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)』碑
場所:野毛山公園(西区老松町)
明治20年(1887年)10月、日本最初の近代水道が横浜に誕生しました。
江戸末期に開港された横浜は、急激に人口が増加し、埋立地が多く良い水が得られなかった為、飲み水や伝染病に苦しみ、大火事にも悩まされていました。イギリス人少将、へンリー・スペンサー・パーマーは、神奈川県の要請によって来日し、横浜から40キロも離れた道志川の水源から、水道管を延々と野毛山まで引いてきたことにより、ここに沈殿池や貯水池を建設し、市内に配水し、横浜の水道を完成させました。
H.S.パーマーは、‘近代水道の父’と呼ばれています。この野毛山浄水場は、関東大震災で破壊されてしまった為廃止されたが、現在も配水地として横浜中心部への上水道の供給源となっています。
西洋理髪
『西洋理髪発祥の地』碑(ZANGIRIの碑)
場所:山下公園内 ほぼ中央
〜ザンギリ頭をたたいてみれば 文明開化の音がする〜
安政の開港と共に、生活様式の洋風化が進む中、政府の「断髪令」に先駆け、明治2年(1869年)の横浜に我が国初の「西洋理髪店」が開業され、欧米風「ザンギリ頭」は文明開化の一翼を担うこととなりました。
そもそもザンギリ頭とは、欧米風の綺麗さっぱりとした男性の髪型という意味です。ザンギリ時代に移って、散髪(切りっ放しのまま揃えないもの。兵士に多い。)・中髪(中央に分けるもの。商人に多い。)・うしろ撫で(後方に垂らすもの。士族に多い。)・開化頭(最も開化風に分けるもの。青年向き。)等の種類があったようです。開化頭の意味がいまいち理解しにくいのは、気のせいでしょうか…?
ちなみに、慶応2年(1866年)、横浜の陣屋にて、越前福井藩の者が最初に断髪したと言われています。
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