横浜のこと・ものはじめて巡り-04

初めに……文献や研究により、考え方が異なる場合もあります。
※横浜・ハマことば辞典や横浜開港資料館資料(各書籍)、ホームページを元に
作成されています。
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ラグビー
『日本ラグビー蹴球発祥記念碑』
場所:慶応義塾大学 総合グラウンド場内 ラグビー場 北隅(港北区下田町1丁目)
ラグビーは、イギリスのラグビー校より始まったスポーツで、日本への伝来は、横浜生まれのイギリス人E.B.クラーク氏がケンブリッジ大学に留学し、同時に留学生活を送っていた田中銀之助と共に日本に持ち帰り、慶応大学の学生に教えたのが始まりだと言われています。
クリーニング業
『クリーニング業発祥の地』
場所:谷戸坂 上り口左側(フランス山公園脇)
開港と同時に外国人相手に洗濯業を始める者が数多くいたといわれています。
碑文には、安政6年神奈川宿の人青木屋忠七氏が現在の5丁目に始めて、続いて岡沢真次郎氏が横浜元町に青木屋を開業、慶応3年脇沢金次郎氏がこの地を継承し、近代企業化の基礎を成したとあります。
また、他の文献では文久元年(1861年)頃に、渡辺善兵衛が日本で初めての西洋式の洗濯業を始めたともあります…。
洗濯業の発祥に関わった方が多かった事が伺えますね!
石鹸工場
『石鹸工場発祥の地』
場所:万世子供の遊び場(南区万世町2丁目:横浜市営地下鉄 阪東橋駅南西)
明治6年(1873年)3月、堤磯右衛門が、横浜三吉町4丁目(現在:南区万世町2丁目25番地付近)で日本最初の石鹸製造所を創業しました。
堤 磯右衛門は、磯子村の村役人を務める旧家の出身で、明治初期の横浜における実業家の1人でした。磯右衛門が横須賀の製鉄所で働いていた時、製鉄所のフラン ス人技師から、当時多量に輸入されている石鹸を借りて使ったところ、その効力に驚き、これが石鹸作りのきっかけとなりました。
度重なる失敗を重ねながら、明治6年(1873年)7月に洗濯石鹸を、翌年(1874年)には化粧石鹸の製造に成功しました。
明治10年(1877年)、第1回内国勧業博覧会で花紋章を受賞し、国内の需要だけに止まらず、香港・上海等にも大量に輸出されたそうです。
そしてその後も磯右衛門石鹸は、害虫駆除や、消毒用薬用石鹸等と効能を広め、生活必需品として欠かせない物になりました。
当時の磯右衛門復刻石鹸は、横浜グッズ001に認定されています。
洋裁業
安政5年(1858年)、江戸幕府とハリスの間で行なわれた日米和親条約の交渉ではハリスが箱のようなものに座っていた…とスケッチが残っています。
しかし、開港後は、外国人と商取引をする商店等が店先に椅子を置くようになりました。明治4年(1871年)には官庁をはじめ、軍隊や殖産工場でも椅子を使うようになったといいます。
横 浜で西洋家具を製造したのは、元町の業者が最も早かったといいます。技術は、イギリス人から教えられ、どっしりとして、シンプルなデザインが特徴だったそ うです。元町が、山手と山下町の外人居留地の間に位置していたこともあり、製造技術や洋風のセンスを身につけやすかったようです。また、居留地の外国人が 増え、需要も多くなっていきました。
また、職人の中には宮大工もいたそうで、明治中頃には寺社建築に見られるような、竜や花等の精巧な彫刻を施した家具を作り、横浜家具として欧米に輸出されるまでに発展しています。
現在も、西洋家具をはじめとした家具を扱うお店が元町にあることは、よく知られています♪
塗装
『我国塗装発祥之地記念碑』
場所:元町公園 プール下
横浜開港と共に、居留地内の西洋人の建物にペンキ塗装をする習慣から、横浜に技術が流入し、ここから各地へ広がっていったそうです。
日本人で初めてペンキ塗装を手がけたのは、江戸の渋塗り職人、町田辰五郎だと言われています。嘉永6年(1853年)、ペリーと幕府側役人が会見を行なう 「交易談判所」が、急遽神奈川宿に造られた時、町田辰五郎は、これに洋風塗装を命じられ、米艦の援助の下でやり遂げたと言い伝えがあり、これが日本におけ るペンキ塗装のはじまりとされています。
横浜家具
安政5年(1858年)、江戸幕府とハリスの間で行なわれた日米和親条約の交渉ではハリスが箱のようなものに座っていた…とスケッチが残っています。
しかし、開港後は、外国人と商取引をする商店等が店先に椅子を置くようになりました。明治4年(1871年)には官庁をはじめ、軍隊や殖産工場でも椅子を使うようになったといいます。
横 浜で西洋家具を製造したのは、元町の業者が最も早かったといいます。技術は、イギリス人から教えられ、どっしりとして、シンプルなデザインが特徴だったそ うです。元町が、山手と山下町の外人居留地の間に位置していたこともあり、製造技術や洋風のセンスを身につけやすかったようです。また、居留地の外国人が 増え、需要も多くなっていきました。
また、職人の中には宮大工もいたそうで、明治中頃には寺社建築に見られるような、竜や花等の精巧な彫刻を施した家具を作り、横浜家具として欧米に輸出されるまでに発展しています。
現在も、西洋家具をはじめとした家具を扱うお店が元町にあることは、よく知られています♪
ステンレス鋼
『ステンレス鋼発祥の地』
場所:西久保町公園 西側(保土ヶ谷区西久保町)
昭和7年(1932年)6月15日、日本金属工業株式会社が創立され、わが国最初のステンレス鋼の国産化に成功し、製造が始まりました。
劇場
元治元年(1864年)11月、居留地102番地に円形劇場(アンフィシアター)ができた事がはじまりとされています。
洋式劇場
明治3年(1870年)10月14日、日本で最初の洋式劇場『ゲーテ座』が、外国人居留地68番地(現在の山下町)に開場しました。
明治18年、フランス人建築家サルダにより、元々山下町にあったものを、谷戸坂上の山手居留地角に新しく建築されたそうです。
「ゲーテ」とは、人名ではなく、陽気・快活・楽しさの意味を持つGaietyである。
カトリック教会
『横浜天主堂跡』石碑
場所:横浜中華街 朝陽門近く(元町・中華街駅2番出口すぐ)
文久元年(1854年)、居留地の外国人への布教の為に、日本で初めてのカトリック聖堂(教会)が建てられました。
「天主」とは、ポルトガル語のdeusが語源とされていて、神を意味するそうです。
後に、ここから山手に移転したそうです。

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