横浜のこと・ものはじめて巡り-03

初めに……文献や研究により、考え方が異なる場合もあります。
※横浜・ハマことば辞典や横浜開港資料館資料(各書籍)、ホームページを元に
作成されています。

横浜開港によって、100軒にも満たなかった半農半漁の小さな横浜村が、
現在の横浜、略称'ハマ'にまで、大きく成長するとは、予想もしなかった事でしょう…♪

横浜の地図を見ながら、'ハマ'歩きをしてみると、何故こんな町の名前なの? 
どうやって作られた場所なの?と湧いてくる、疑問も含めて、解決する為に
作ってみました。

『横浜こと・ものはじめて巡り』や『ハマことば』のページと、連動している部分も
ありますので、是非そちらも合わせてご覧下さい。

<観光名所から…>
山下公園
横浜を代表する観光するスポット。
日本最初の臨海公園で、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の復興事業によって造成されました。
震災で生じた瓦礫で、海を埋め立て、その上に土を覆った山下公園が開園したのは、関東大震災から7年経った昭和5年(1930年)のことでした。戦後の米 軍によって接収された時期や再整備を経て、昭和36年(1961年)に、ほぼ現在の山下公園の姿になりました。
同年1月には、シンボル的存在の「マリンタワー」が開業しました☆☆
海であった事は、今は想像もつかないですが、ベイブリッジ等の眺めがロマンチックで、園内には、チャップリン等も乗船したという「氷川丸」・童謡で有名な 「赤い靴を履いた女の子」の銅像・「かもめの水兵さん」の歌碑等もあり、‘ハマ’の港町らしさを味わえ、平日・休日問わず賑わっています♪
氷川丸
現在は、山下公園に係留されていますが…(^.^)
昭和5年(1930年)、横浜船渠で完成した日本郵船の豪華貨客船で、シアトル航路を中心に活躍し、昭和35年(1960年)の引退までに太平洋を238回の横断をしました★★
また、戦時下には海軍の徴用船となり、船体を白く塗り、赤十字マークを付けて、傷病兵の輸送にもあたりました。
マリンタワー
灯台としては世界1の高さを持つ灯台です!!正式には横浜マリンタワーといいます。現在は、営業を終了し残念ですが、‘横浜のシンボル’であることに変わりはありません☆☆
大桟橋
横浜港の1番大きい桟橋。
メリケン波止場・イギリス波止場・西波止場・サウスピア・横浜桟橋とも言いますが、それぞれ意味があるようです!!
☆ メリケン波止場:アメリカン波止場の略称で、開港後の明治になって使われました。
☆ イギリス波止場:1時的にイギリスも使用したので、こういう言い方もされました。
☆ 西波止場:フランス波止場の、東波止場に対して言いました。東のフランス人居留地前に海岸があったのでこう言われています。
☆ サウスピア:南埠頭である大桟橋のことを言い、横浜港の北埠頭(ノースピア)である、瑞穂埠頭に対して使われました。瑞穂埠頭は現在も米軍が使用しています。
‘メリケン波止場’や‘サウスピア’は、横浜開港祭の前身『横浜どんたく』テーマ曲の1つ、『横浜どんたく音頭』の歌詞にも使われています♪
開港の広場
安政元年(1854年)3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が締結した場所で、記念碑も置かれています。横浜開港のまさに、はじまりなのです♪♪
シルク博物館
開港の広場前にある、開港以来、輸出貿易の主力商品であった生糸に関する博物館で、蚕から絹織物が出来るまでの生産工程を紹介している他、衣服の変遷や生糸貿易の歴史も学ぶことが出来ます。
汽車道
桜木町駅から赤レンガ倉庫へと続き、潮風を楽しみ、海を渡る散歩道。
明治44年(1911年)9月に開通し、昭和35年(1960年)に廃線になった‘臨港鉄道線’跡の1部の500mを道路にしたもので、鉄道跡地のレール やトラス橋等の歴史的資産も活かされています♪
汽車道として手が入るまでは、周りを柵に囲われ、立ち入り禁止とされていました。線路下も、今のように埋め立てられた道ではなかった為、海が見えていたの です!!…というのは、幼い頃、内緒で線路上を赤レンガ倉庫方面から桜木町方面に渡って、家族皆で警備員さんに叱られた記憶も…。今は良き思い出です☆☆
赤レンガ倉庫
『ハマの赤レンガ』として親しまれている、赤レンガ倉庫。
横浜港の物流拠点として、明治・大正・昭和と3世代を活躍しました!!
国の模範倉庫として、明治32年(1899年)、新港埠頭が着工される際に建築され、港の貿易品を1時保管する倉庫として、また横浜税関の設備として利用 されました。戦後の米軍の接収という時期にも、横浜の生糸貿易を支えました。
平成元年(1989年)、役目を終え、横浜市が国から取得し、現在の姿に生まれ変わりました☆☆
赤レンガ倉庫を中心としたパーク内には、旧横浜港(よこはまみなと)駅のプラットホームを保存・活用する等、歴史と景観も配慮されています♪
馬車道
開港当時の異国情緒あふれる町並みを残す、馬車道。
馬車道という地名は、居留民の外国人が、居留地と吉田橋(現在のJR関内駅そば)を結ぶ道を、馬車で往来したことに由来します。
本町通りから吉田橋までの近道を作ろうとして出来たこの道が、まっすぐなのはそのような理由からなのだそう…。
歴史を紐解けば、発祥の碑等も数多く点在し、はじめて物語がいっぱいです♪
関内と関外
安政元年(1854年)、日米和親条約を締結後、横浜に開港場を作るにあたり、幕府は、開港場と外部との出入りの取り締まりをしやすいように、外国人居留 地の周囲を川(現在の大岡川と堀川を結ぶ支流)と掘り割りで区切り、出入りする橋のたもとに関所を設けました。馬車道のスタート地点となっていた吉田橋に 関所があり、横浜版、長崎の‘出島’的役割を果たしていたようです。
そして、吉田橋からみて、馬車道側を関内、伊勢佐木町側を関外といいました。関外は、つまり‘居留地の外側’を言い、土地名として現在は使用されていません!
「吉田橋関所跡」は、『横浜のこと・ものはじめて巡り』のページ、‘トラス鉄橋’にて写真紹介もしています。
元町
‘ハマトラ’の発祥の街、元町。
安政6年(1895年)、横浜開港の際、開港場の建設と、山手の外国人居留地の整備の為、その当時‘横浜村’と呼ばれていた地区に住んでいた住人達(民家 90軒程)は、隣の‘本村’へと強制移住させられたそうです。町名は、元の‘横浜村’を移したことが由来となっています。
移り住んだ住人達は、それまで農業・漁業で生計を立てていましたが、外国人居留地と山手居留地の中間に位置していた事もあり、外国人の日用品の供給や、輸 入品を扱う等、西洋の生活スタイルを商売として提供する人が増えていき、今日の洗練された元町商店街へと繋がっています☆☆
外国人墓地
みなとみらいや山下町が一望出来る外国人墓地。
ペリー提督が黒船7隻を従えて、徳川幕府との開国交渉に訪れた嘉永7年(1854年)頃、乗組員の水兵が事故死するという出来事に見舞われました。ペリー 提督は、この乗組員の埋葬にあたり、海の見える土地とアメリカ人用のお墓を日米和親条約と共に要求した事が、外国人墓地の始まりと言われています。
この地は従来、増徳院というお寺で、当初幕府は増徳院の境内の1部を墓地として提供していましたが、日本で亡くなる外国人が増加した為、増徳院の上の高台に外国人墓地の区域を定めました。
現在4500人以上の外国人の方々が眠っており、その中には日本の近代化に貢献した著名外国人の方もいらっしゃいます♪
墓地の入口横の資料館では、この地に眠る方々の名簿や業績等、写真やパネルにより紹介されています。
ブラフ:bluff
山手のこと。居留地の南を画する堀川から、中村川に沿った元町の背後の居留地の別称。文久年間にイギリス軍と、フランス軍が駐屯したのに続いて、外国公館用地や山手居留地となりました。
日本人より、外国人が特に良く使っていました。本来の意味は、‘崖’や‘断崖’です。
横浜浮世絵では、「山手」そのものにブラフと読み仮名をふった作品もありました!
中華街
開港当初から、華僑が住み始めて、形作られてきた世界最大級の中国人が住む商店街。
明治初期には‘唐人街’、大正から昭和にかけては‘南京街’、戦後になって‘中華街’と呼ばれるようになりました★
横浜橋商店街
『ハマの台所』という愛称で親しまれている、南区横浜橋商店街。 第2次世界大戦後の闇市的なマーケットに始まり、今も130軒を越す店舗が並び、そのうち70軒程が食品店であることが、このように呼ばれる由来です♪

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