『日米和親条約締結の碑』
場所:大桟橋前の開港の広場
安政元年(1854年)3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が調印されました。
開港を迫るアメリカは、同年1月16日、ペリーが7隻の艦隊を率いて出現し、柴村(横浜市金沢区)の沖合に2週間程停泊しました。2週間もめた理由には、江戸近辺であること、艦隊を揃えて停泊出来ること、上陸地が大砲の射程距離であること、汽車(小型蒸気機関車)の模型等のペリー持参の贈り物を展示出来る広い場所があること等がペリーの条件だったと言われています。緊迫した交渉を重ね、2月10日、ペリー一行は横浜に上陸し、日米代表により浜辺に急造された横浜村応接所に入りました。現在の横浜開港資料館や神奈川県庁が建っている辺りです。その日を初回として4回の会談と書面による交渉を経て、日米和親条約が調印されました。アメリカ希望でもあった最初の候補地は、江戸から近い宿場の神奈川でしたが、当時の江戸幕府が急遽横浜村に変更し正式に開港場になったのが、安政6年(1859年)6月2日でした。
『開国史跡 玉楠の碑』
場所:横浜開港資料館 中庭
この楠の木は、江戸時代からこの地にあります。日米和親条約が結ばれた応接所は現在の、県庁近くに設けられたといいます。関東大震災によって、木の幹は消失したものの、生き残った根から芽が出て、その芽を少しずつ移動し大事に育てたので、今や大木となりました。横浜発展の生き証人とも言える『玉楠の木』は、昭和63年(1988年)横浜史跡に指定されました。 |
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